kazki//okadaの備忘録

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「歎異抄を読む」早島鏡正

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浄土真宗の開祖、親鸞の思想を弟子である唯円が著した書「歎異抄」の解説書。原文も載っているのでありがたい。

この本を読み、これまで抱いていた浄土真宗の印象が変わった。これまでは、どんな人でも救ってもらえる、それに対して感謝の念仏を唱える宗派、という印象をもっていた。とりあえず楽観的でわかりやすい庶民のための仏教なんだな、と思っていた。しかし、この本を読んでみると、そうではないのではないかと思い直した。浄土真宗の根本にあるのは、自己の無力を自覚するところにあるのではないかと思った。いかに努力しても煩悩を消すことや悟りの境地に達することはできない、という自己の無力さを自覚するところに本質があるのではないかと。怠慢ではなく考え尽くしたところで人間の限界を認め、人智を超えたところに救いを求めるしかない、雑な上に解釈が間違っているかもしれないがそういうことではないかと自分には思われた。現代風に浄土を死と捉えるとするならば、いくら考えたり修行したりしてもどうにもならないことはどうにもならないので死に任せる、ということではないでしょうか。うまく表現できてないと思うのだけど、自分はそう感じたのです。なんだかキルケゴールの「死に至る病」を読んだ時と似た印象です。絶望こそが第一歩だと。欺瞞を抜けるファーストステップだと。で、最終的には無力を自覚し祈ることしかできない、みたいな。雑な印象ですが。楽観的だと思っていた浄土真宗が絶望の果てに行き着いた最後の手段としての祈り、みたいな、楽観の対極にある教えなのかなと。自力の仏教と比べてキリスト教に近いなと感じました。個人的には、救済の宗教より修行の宗教、救いを求めるのではなく自己を律する宗教の方が好きですが。

あと今回の大きな収穫としては、接してみなければわからない、というものです。いろいろなものに対し大まかなイメージのようなものを持っているわけですが、それに触れてみないと全然わからないものだなと改めて思いました。イメージでものを語ることの愚かさにも気づくことができました。

 

以下、読んでいた時のメモ

 

歎異抄を読む

 


第ニ章

・人は自力では救われない、仏の力によってのみ救われる。

 


第三章

・自力を恃んで往生しようとする善人より、無力の自覚がある悪人の方が往生しやすい。

 


親鸞は、念仏しかできない自分はいずれにせよ往生しようがないので念仏を唱えて地獄に堕ちても後悔ないとした。

原始仏教においては、善悪を相対的なものとする見方と善悪を超えて最高の善を求めるという見方とふた通りある。

・善人でも人間存在の根源を知れば悪の自覚を持つに至る。悪人こそ悪の自覚があるから往生しやすい。また善をなそうとしても自力作善に過ぎない。

 


第七章

・生死即涅槃、煩悩即菩提、これらは入不二

・煩悩があっても障りにならなくなったところが涅槃。煩悩を断ずることは煩悩を超克することである。

 


第十一章

・学解往生の異端、と呼ばれる立場の批判。他宗からの批判に対抗しようとし、知識偏重となることに気をつけなければいけない。学問が学解に堕して、知識理論、観念の遊戯にふけるなら目的を見失っている。学問も信仰も真理探究の手段である。

・念仏による即身成仏の批判。悟りは浄土において。

・辺地堕獄の異端、の批判。自力の念仏を戒める。悪人正機を主張。

 


総じて概念化の異端への批判。

 


第十三から十八章

・悪をなすのは業縁によってである。それゆえ、戒律を守らないことで往生できなくなることはない。行を重視しすぎた律法化の異端への批判。怖畏罪悪の異端は悪を恐れて善をつもうとする異端。念仏滅罪の異端は念仏により罪を消そうとする異端。自然廻心の異端は悪を改心によって消そうとする異端。

 


まとめ部分

・浄土の捉え方には

人間世界に建設すべき理想の社会

観念的に浄土は実在する

浄土は個人の心の転換である

浄土は真実の世界として実在する

という4つの立場があった。


歎異抄を読む (講談社学術文庫)

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