現代の哲学、とはいっても初刷が1991年なのでかなり前の著作。ハイデガー、メルロ=ポンティ、フロイトとかそのあたりを大まかに解説している。人間存在、身体問題、言語と社会、構造主義、現象学、そのあたりが扱っている内容。
読んだ感想としては、自分はやはり実存主義と呼ばれているものに興味の中心があるなと思った。本書であれば、ハイデガー、サルトルが一番興味深かった。特にハイデガーは気にはなっていたけどほとんど何も知らなかったからますます興味が湧いた。中でも、死の恐怖が欺瞞に満ちた自己充足を打ち破り、自己と向き合う契機となる(ちょっと飛躍しすぎかも)という内容の文章がぐっときた。改めて、社会についてや世界についてより自己について興味があるなというのも感じた。自己について知るためには世界について知る必要があるのですが。世界がいかなるものが知りたいから自己を知りたいのではなく、自己がいかなるものでどうあるべきか、いかに生きるべきか知りたいから、そのためにその基盤となる世界はいかなるものか、について知りたい、というのが自分の興味だと再認識。
以下、読んでる最中のメモ。
現代の哲学メモ
生物の行動は、決して与えられた外的諸条件の関数ではない。むしろ、せいぶあが反応する環境の方が、その生物の活動の内的規範-たとえば、知覚の閾や基本的活動の形態-によって区画されてくるのである。
世界定立は日常経験により形成された思考習慣に過ぎず、なんら哲学的反省を経ていない根本的な先入見である。その先入見に規定された日常的な生き方を自然的態度と呼ぶ。普遍的な学問的認識が不可能である自然的態度を止め徹底した反省を加える立場を超越論的態度と呼ぶ。自然的態度に反省を加え超越論的態度をとる操作を現象学的還元と呼ぶ。
日常性に生きている人は死の恐怖により自然的態度に装われた自己充足性を打ち破られ、自己に目覚め、おのれの存在をあくまでおのれの存在として引き受け、主体的に企投しよういう本来的実存を回復するのである。
自我とは形式的にも実質的にも意識の住人ではなく、反省によって、意識の働きの統一の極として二次的に構成された超越的対象の一つにすぎない。したがって、超越論的意識は'非人称的'なものであり、私の'我'が他人の'我'よりもいっそう確実だということはなく、アルチュール・ランボォの言うように「'我'とは一個の他人」にすぎない。西田幾多郎と同じような非定立的自己意識についての考え方を持っている。私を意識しない私。純粋経験の状態。
- 作者: 木田元
- 出版社/メーカー: 講談社
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